サヨナラバス('00/10/13)「パブロフの犬」という話を聞いたことがある。詳細は覚えていないけれど、 要は「条件反射」についての話だったと記憶している。 --- 1998年。 当時大学3回生、バリバリの鉄道オタクだった私は 夏休みに鹿児島へ旅行した。 「指宿枕崎線」という路線に乗った。 「薩摩富士」こと開聞岳が良く見え、 沿線には薩摩芋畑も見られ、 なかなか風光明媚な路線だった。 終点・枕崎から鹿児島へは、 ・来た道をそのまま戻るのは面白くない。 ・時間的に早い ことを理由に、バスで戻ることにした。 そこで、少し事件があった。 --- 列車の枕崎駅到着が遅れたために、 バス乗り換えの時間がほとんど無かった。 そして慌てて乗り込んだバスの車内で、 駅で小用を足すのを忘れていたことに気づいた。 --- 今更降りられない。 できるだけ気を紛らわせよう。 そのことのみに集中した。 --- その時、バスにはAMかFMかラジオが流れていた。 私はそこに救いを求めた。 この年の夏にブレイクしたのが「ゆず」だった。 彼らがブレイクした、「夏色」が流れていた。 「この長い長い下り坂を~」というフレーズが、 「ゆっくり、ゆっくり、下ってく~」というフレーズが、 体内に鈍く響いた。 もはや、選択肢は「寝る」しか無くなっていた。 --- 幸い、寝て、起きたときには 西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)近くで、 幸い粗相も無く、何とか難を逃れた。 しかし、それ以来「ゆず」の「夏色」を聞くと 今でも「パブロフの犬」のように条件反射的に WCへと行きたくなってしまう。 だから、「ゆず」の曲を21世紀に入るまで、 買うことも、借りることも無かった。 勿体無いことをしたものだ、そう思った。 '99年3月17日リリースされた 「サヨナラバス」を聞いたときに、特に思った。 --- 前置きがまたも長くなってしまった。 ただ、この試合の観戦記を書くのなら、 (「くじら12号」で、もう歌の題をパクるのはやめようと思ったのだが) 題はやはりこの 「サヨナラバス」 が一番相応しいと思う。 いろいろな意味での「サヨナラ」を考えてしまうからだ。 --- この観戦日は珍しく、 弟に先にGS神戸のライトスタンドに先に行っておいてもらい、 試合開始30分前、17:30頃に私は球場に到着した。 弟が座っていたのは、いつもの、前から8列目だった。 そして弟のおかげで、席を確保することができた。 完全な消化試合であるにもかかわらず、 この日のライトスタンドは超満員だったのだ。 なぜか? 1つの理由は、この日がBWの本拠地最終戦だったこと。 最大の理由は、この日の前日に、とある選手が、 「翌年からMLBに移籍する」 ということが明らかになったからである。 --- が、この試合で「サヨナラ」になる選手が他にもいた。 BWの背番号21番、野田浩司投手。 '92年オフにTから松永浩美とのトレードで加入し、 '93年には17勝を挙げ、Bu野茂英雄と最多勝を分け合った。 この年に、ゴールデングラブも獲得した。 '94年にはその野茂英雄、そして元阪急Bの足立光宏に並ぶ、 当時の日本記録タイとなる1試合17奪三振を達成し、 '95年には強風吹きすさぶ千葉マリンスタジアムで 9イニングで19個の奪三振、という日本新記録を作った男。 最大の武器はなんといってもフォークボール。 まさに「伝家の宝刀」だった。 '96年の日本シリーズでは第3戦に先発し、 見事勝ち投手となり、日本一に貢献した。 --- しかし、'97年オフ、彼はFA権を取得し、FA宣言した。 当時京都在住だった私には、 「Tに戻る」旨を書きたてる関西のマスコミの 相変わらずの報道に辟易していた。 だから、残留してくれる、と知ったときには 本当に嬉しかった。 まさか、その後1勝もできないとは思っていなかった…。 --- この日が彼の引退試合ということだった。 しかし、先発は戎信行。 この年、10年目にしてプロ初勝利を挙げた彼の先発だった。 間違いなくBWの'95,96連覇の貢献者の一人である野田に、 球団が用意したのは、 試合前のセレモニーと、 試合前にたった「1球」を投げる機会だけだった。 --- ブルペンを見る。 投球練習をしている21番。 相変わらずの、独特の、という表現以外には 適確な表現ができないが、「あの」フォーム。 左足に体重が乗った後、踊るように右足が地を踏む。 全然変わっていないじゃないか。 今投げたのはフォークだ、やっぱり落ちるなあ。 まだまだ、出来るんじゃないか? そういう思いが胸にこみ上げてくる。 --- 試合開始前。野田がマウンドに登る。 最後の投球は、「渾身のフォーク」だった。 ライトスタンドから観戦していたが、 明らかにフォークと分かった。 彼の、ストレートな感情が込められていたのだろう。 --- 感傷に浸るまもなく、試合開始。 この試合は、もっと大きな意味を含んでいる。 地元・神戸出身の戎のタイトルがかかっていたのだ。 --- 2回裏、個人的なちょっとしたハプニングが起きた。 関西テレビの夕方のニュース生中継に私と弟が兄弟で写ったのだ。 インタビューされることが分かり、 つい1時間弱前まで感傷に浸っていたのを忘れ、 慌てて知人に電話する。 家族にも連絡して、ビデオ録画してもらった。 弟の方だけ、関テレの杉本なつみアナにインタビューされた。 …羨ましかった。 --- 後日、画面に映った自分を見て相当ヘコんだ。 私は他人より面長+頭が大きいことは知っていたが、 まさか画面に入りきらなかったとは…。 --- 話を戻す。 この年の戎は、後半戦のチームの大黒柱だった。 彼だけが希望の星だった。 前半戦に優勝争いしていたのが嘘のように チームは敗れ続けた。 理由はただ一つ。怪我人が出すぎた。それに尽きる。 そんな中、戎が7月4日の米独立記念日に、プロ初勝利を挙げた。 その後、彼は結局8勝を積み上げた。 そしてこの日を迎える前、129イニング投げていた。 あと6イニングを投げればシーズン規定投球回数に達する。 その結果如何によっては、この日まで防御率1位の M小野晋吾の3.59を上回る。 そのために、タイトルのために、仰木監督も戎を投げさせ続けた。 9/9 1失点 ○9イニング完投。 9/15 5失点 ○9イニング完投。 9/23 4失点 △6イニング完投(降雨コールド)。 9/30 8失点 ○9イニング完投。 10/6 5失点 ●9イニング完投。 これだけ失点しながらも投げさせ続けたのは、 「タイトルを取らせてやりたい」という仰木監督の親心だろう。 ただ、長い目で見れば、ここでの無理の蓄積が、 その後の戎にマイナスに働いたのかなあ、と思う。 --- その戎は、この日、1回表、野田から直接ボールを手渡された。 そのせいもあったのだろう。 投球から気合、魂を感じた。 全く打たれる気配が無かった。 6イニングを無失点、1安打、しかも貝塚の内野安打1本のみ。 「完璧」だった。防御率が3.42から3.27に下がった。 --- しかしBWは、後に'03年には10勝を挙げるL・後藤光貴の前に、 4回の塩崎の適時打の1点しか取れなかった。 7回表、戎を引き継いだ左腕・カルロスが3連打で1点失い、 戎の9勝目が消えた。 --- その裏BWは、L後藤から2死一,三塁の場面で、 谷の遊撃へのゴロが内野安打となり、1点勝ち越した。 7回表に、Lが怪我を抱えた松井稼頭央に、代走で上田に 替えていたことが、結果的には内野安打にしたのだった。 --- 8回裏。L投手が森に変わる。 5番DHのところで代打で人気者・藤井康雄さん。 ここら辺の演出も仰木さんの得意なところだ。 康雄さんは大きなファールを打つも、結局凡退。 続く五十嵐四球、次の7番右翼のナナリーに替え、代打五島。 三振ゲッツーで攻撃終了。 --- 9回表のBWの守備の前、スタジアムにコールが響いた。 「7番、五島に代わりまして、ライトにイチローが入ります 7番、Right Fielder, Ichiro~, Su,Zu,Ki!!」 --- 8月から、怪我で戦線離脱していた彼が、 いつものポジションに、跳ねて、駆けてやってくる。 (後日追記:その日の写真が家で見つかったので、載せました。) いつも当たり前のようにそこにいてくれた。 '95年8月16日には試合中に、 一塁内野席で観戦する私達兄弟のところに ファールボールを投げてくれた。 (これは、私の、いや私達兄弟の、一生の宝物です) スーパースターが、目の前でプレーするのを見てきた。 ライトから見ると、51番は一番近くに見る機会が多い番号だった。 手前の大きい51番と、その先の小さい52番(※)の対比が面白かった。 それが、もう見れなくなってしまうのか…。 (※二塁手の大島公一選手。現東北楽天イーグルス所属) --- 9回表、一塁手五十嵐の失策で、イチローがボールを捕った。 これが、BWで最後のイチローのプレーになってしまった。 --- 試合後。 本拠地最終戦のため、全選手の挨拶に加え、 選手達が観客席にボールを投げ入れる。 イチローも他の選手と同じように、 スタンドに、ボールを投げ入れる。 最後に、私達のいるライトスタンドにボールを投げ入れた。 そして、一塁ベンチへと消えた。 それでも私達は納得できない。 それを知ってか、ボールを投げ入れる選手と 一緒にライトの守備位置付近まで来ていた、 球場内の球団職員の方が残ったまま、 私達のスタンドの方に向かって、 手を大きく広げ、上下にばたばた煽る。 --- 「イチロー、イチロー、イチロー…」 何回コールしただろう。 そのアンコールに応えて、また戻ってきたイチロー。 (画像追記) いつもの「指定席」に戻ってきたイチロー。 そして、もうこれが本当に最後なんだ、と思った。 そして、本当に最後になってしまった。 いくつかのボールをスタンドに投げ込んで、一塁ベンチへと戻っていった。 去り際に、「(いいプレーを)やったときは喜んでくれ、 恥ずかしいプレーをすればしかってくれる。 この球場には本物の野球ファンが多かった。 その中でプレーできたことを誇りに思います」 とのコメントを残してくれた。心の底から、本当に嬉しかった。 --- その後、ご存知の通り、イチローは、「Ichiro」になった。 昨年は、MLBでも記録を打ち立てた。 --- でも、いつか、 現役を終えるまでのいつか、 一瞬でもいいから、 またこのスタンドで、 「オリックスブルーウェーブ」の 「イチロー」が 見たい。 見られるんじゃないか。 現役の最後は、やはり古巣に戻りたい、と思って 戻ってきてくれるんじゃないだろうか? 「サヨナラ サヨナラ また笑って出会えるその日まで」 そういう気持ちで生きてきた。 甘い考えだろう。 現実離れした願望だろう。 ただの妄想だろう。 でも、いつの日にか。 そう、いつの日にか、と心のどこかで信じて生きてきた。 だから、その一抹の可能性を、完全にゼロにした、 昨年の合併は、許せない。悔しい。 --- この日のスコアはこちら 翌日の記事はこちら 良く考えれば、 この日の野田浩司投手に対して、 「公式戦」で1イニングも、 「1球」すらも投げることを許さなかった、 という仕打ちを考えれば、 こういうことを平気で出来る経営陣なんだろうなあ、 と早く気づくべきだった。 この日の完璧なピッチングで '00年の最優秀防御率のタイトルを取った 戎信行は、合併のドサクサに巻き込まれて 大阪近鉄バファローズから解雇された。 これも、何かの因果なのだろうか。 --- 実は、この同日、悲報が流れた。 福岡ダイエーホークスの、前年'99年日本一の原動力となった セットアッパーであった、藤井将雄投手が亡くなったのだ(関連記事こちら)。 福岡ダイエーホークスは、彼のつけていた15番を永久欠番とした。 それは、「ソフトバンクホークス」になっても変わらない。 --- ファンの気持ちを逆撫でし、歴史を軽視するチームと、 地元に熱狂的に愛される、ファンの多いチームの違いだろう。 --- 変革していくこと、改善していくこと、 またそのために努力することは 経営者としては当然だ。 人間としても当然かもしれない。 少なくとも経営者としては それが出来なければ失格だろう。 --- でも、変革していくことと、歴史を軽視することは全く別だ。 だから歯がゆく、悔しい。 今の野球界が間違っている、ということを認識している。 そのベースについては個人的には 私も賛成しているが…。 --- そして、そんなチームだけど、 やっぱり応援してしまう。それがもっと悔しい。 「じゃ、ファンやめれば?」と言われて 「いや、それでもやめられへん!!」と答えてしまう 自分が一番悔しい…。 --- でも、決めたんだ。 私はオリックスファンを続けていくということを。 「サヨナラバス」の歌詞を借りれば、 最後のフレーズ、「僕は僕らしくいるから」 私らしくいること、が、 多分オリックスファンであり続けることなんだ。 少なくとも現時点では。 ['05/02/12] --- ['05/03/20:画像追記] |