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佐竹台8丁目25番地―12

サヨナラバス('00/10/13)

「パブロフの犬」という話を聞いたことがある。
詳細は覚えていないけれど、
要は「条件反射」についての話だったと記憶している。

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1998年。
当時大学3回生、バリバリの鉄道オタクだった私は
夏休みに鹿児島へ旅行した。

「指宿枕崎線」という路線に乗った。
「薩摩富士」こと開聞岳が良く見え、
沿線には薩摩芋畑も見られ、
なかなか風光明媚な路線だった。

終点・枕崎から鹿児島へは、
・来た道をそのまま戻るのは面白くない。
・時間的に早い
ことを理由に、バスで戻ることにした。
そこで、少し事件があった。

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列車の枕崎駅到着が遅れたために、
バス乗り換えの時間がほとんど無かった。

そして慌てて乗り込んだバスの車内で、
駅で小用を足すのを忘れていたことに気づいた。

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今更降りられない。
できるだけ気を紛らわせよう。
そのことのみに集中した。

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その時、バスにはAMかFMかラジオが流れていた。
私はそこに救いを求めた。

この年の夏にブレイクしたのが「ゆず」だった。
彼らがブレイクした、「夏色」が流れていた。

「この長い長い下り坂を~」というフレーズが、
「ゆっくり、ゆっくり、下ってく~」というフレーズが、

体内に鈍く響いた。

もはや、選択肢は「寝る」しか無くなっていた。

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幸い、寝て、起きたときには
西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)近くで、
幸い粗相も無く、何とか難を逃れた。

しかし、それ以来「ゆず」の「夏色」を聞くと
今でも「パブロフの犬」のように条件反射的に
WCへと行きたくなってしまう。

だから、「ゆず」の曲を21世紀に入るまで、
買うことも、借りることも無かった。

勿体無いことをしたものだ、そう思った。

'99年3月17日リリースされた
「サヨナラバス」を聞いたときに、特に思った。

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前置きがまたも長くなってしまった。
ただ、この試合の観戦記を書くのなら、
(「くじら12号」で、もう歌の題をパクるのはやめようと思ったのだが)

題はやはりこの

「サヨナラバス」

が一番相応しいと思う。

いろいろな意味での「サヨナラ」を考えてしまうからだ。

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この観戦日は珍しく、
弟に先にGS神戸のライトスタンドに先に行っておいてもらい、
試合開始30分前、17:30頃に私は球場に到着した。

弟が座っていたのは、いつもの、前から8列目だった。
そして弟のおかげで、席を確保することができた。

完全な消化試合であるにもかかわらず、
この日のライトスタンドは超満員だったのだ。

なぜか?

1つの理由は、この日がBWの本拠地最終戦だったこと。

最大の理由は、この日の前日に、とある選手が、

「翌年からMLBに移籍する」

ということが明らかになったからである。

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が、この試合で「サヨナラ」になる選手が他にもいた。
BWの背番号21番、野田浩司投手。

'92年オフにTから松永浩美とのトレードで加入し、
'93年には17勝を挙げ、Bu野茂英雄と最多勝を分け合った。
この年に、ゴールデングラブも獲得した。

'94年にはその野茂英雄、そして元阪急Bの足立光宏に並ぶ、
当時の日本記録タイとなる1試合17奪三振を達成し、
'95年には強風吹きすさぶ千葉マリンスタジアムで
9イニングで19個の奪三振、という日本新記録を作った男。

最大の武器はなんといってもフォークボール。
まさに「伝家の宝刀」だった。

'96年の日本シリーズでは第3戦に先発し、
見事勝ち投手となり、日本一に貢献した。

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しかし、'97年オフ、彼はFA権を取得し、FA宣言した。

当時京都在住だった私には、
「Tに戻る」旨を書きたてる関西のマスコミの
相変わらずの報道に辟易していた。

だから、残留してくれる、と知ったときには
本当に嬉しかった。
まさか、その後1勝もできないとは思っていなかった…。

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この日が彼の引退試合ということだった。
しかし、先発は戎信行。
この年、10年目にしてプロ初勝利を挙げた彼の先発だった。

間違いなくBWの'95,96連覇の貢献者の一人である野田に、
球団が用意したのは、

試合前のセレモニーと、

試合前にたった「1球」を投げる機会だけだった。

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ブルペンを見る。
投球練習をしている21番。

相変わらずの、独特の、という表現以外には
適確な表現ができないが、「あの」フォーム。
左足に体重が乗った後、踊るように右足が地を踏む。

全然変わっていないじゃないか。
今投げたのはフォークだ、やっぱり落ちるなあ。

まだまだ、出来るんじゃないか?
そういう思いが胸にこみ上げてくる。

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試合開始前。野田がマウンドに登る。

最後の投球は、「渾身のフォーク」だった。

ライトスタンドから観戦していたが、
明らかにフォークと分かった。

彼の、ストレートな感情が込められていたのだろう。

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感傷に浸るまもなく、試合開始。
この試合は、もっと大きな意味を含んでいる。

地元・神戸出身の戎のタイトルがかかっていたのだ。

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2回裏、個人的なちょっとしたハプニングが起きた。
関西テレビの夕方のニュース生中継に私と弟が兄弟で写ったのだ。

インタビューされることが分かり、
つい1時間弱前まで感傷に浸っていたのを忘れ、
慌てて知人に電話する。

家族にも連絡して、ビデオ録画してもらった。
弟の方だけ、関テレの杉本なつみアナにインタビューされた。
…羨ましかった。
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後日、画面に映った自分を見て相当ヘコんだ。
私は他人より面長+頭が大きいことは知っていたが、
まさか画面に入りきらなかったとは…。

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話を戻す。

この年の戎は、後半戦のチームの大黒柱だった。
彼だけが希望の星だった。

前半戦に優勝争いしていたのが嘘のように
チームは敗れ続けた。

理由はただ一つ。怪我人が出すぎた。それに尽きる。

そんな中、戎が7月4日の米独立記念日に、プロ初勝利を挙げた。
その後、彼は結局8勝を積み上げた。
そしてこの日を迎える前、129イニング投げていた。

あと6イニングを投げればシーズン規定投球回数に達する。
その結果如何によっては、この日まで防御率1位の
M小野晋吾の3.59を上回る。

そのために、タイトルのために、仰木監督も戎を投げさせ続けた。
9/9 1失点 ○9イニング完投。
9/15 5失点 ○9イニング完投。
9/23 4失点 △6イニング完投(降雨コールド)。
9/30 8失点 ○9イニング完投。
10/6 5失点 ●9イニング完投。

これだけ失点しながらも投げさせ続けたのは、
「タイトルを取らせてやりたい」という仰木監督の親心だろう。

ただ、長い目で見れば、ここでの無理の蓄積が、
その後の戎にマイナスに働いたのかなあ、と思う。

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その戎は、この日、1回表、野田から直接ボールを手渡された。

そのせいもあったのだろう。
投球から気合、魂を感じた。
全く打たれる気配が無かった。

6イニングを無失点、1安打、しかも貝塚の内野安打1本のみ。
「完璧」だった。防御率が3.42から3.27に下がった。

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しかしBWは、後に'03年には10勝を挙げるL・後藤光貴の前に、
4回の塩崎の適時打の1点しか取れなかった。
7回表、戎を引き継いだ左腕・カルロスが3連打で1点失い、
戎の9勝目が消えた。

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その裏BWは、L後藤から2死一,三塁の場面で、
谷の遊撃へのゴロが内野安打となり、1点勝ち越した。

7回表に、Lが怪我を抱えた松井稼頭央に、代走で上田に
替えていたことが、結果的には内野安打にしたのだった。

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8回裏。L投手が森に変わる。
5番DHのところで代打で人気者・藤井康雄さん。

ここら辺の演出も仰木さんの得意なところだ。

康雄さんは大きなファールを打つも、結局凡退。
続く五十嵐四球、次の7番右翼のナナリーに替え、代打五島。
三振ゲッツーで攻撃終了。

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9回表のBWの守備の前、スタジアムにコールが響いた。
「7番、五島に代わりまして、ライトにイチローが入ります
 7番、Right Fielder, Ichiro~, Su,Zu,Ki!!」

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8月から、怪我で戦線離脱していた彼が、
いつものポジションに、跳ねて、駆けてやってくる。

(後日追記:その日の写真が家で見つかったので、載せました。)
イチロー登場

いつも当たり前のようにそこにいてくれた。

'95年8月16日には試合中に、
一塁内野席で観戦する私達兄弟のところに
ファールボールを投げてくれた。
(これは、私の、いや私達兄弟の、一生の宝物です)

スーパースターが、目の前でプレーするのを見てきた。

ライトから見ると、51番は一番近くに見る機会が多い番号だった。
手前の大きい51番と、その先の小さい52番(※)の対比が面白かった。

それが、もう見れなくなってしまうのか…。

(※二塁手の大島公一選手。現東北楽天イーグルス所属)

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9回表、一塁手五十嵐の失策で、イチローがボールを捕った。
これが、BWで最後のイチローのプレーになってしまった。

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試合後。
本拠地最終戦のため、全選手の挨拶に加え、
選手達が観客席にボールを投げ入れる。

イチローも他の選手と同じように、
スタンドに、ボールを投げ入れる。

最後に、私達のいるライトスタンドにボールを投げ入れた。


そして、一塁ベンチへと消えた。


それでも私達は納得できない。


それを知ってか、ボールを投げ入れる選手と
一緒にライトの守備位置付近まで来ていた、
球場内の球団職員の方が残ったまま、
私達のスタンドの方に向かって、
手を大きく広げ、上下にばたばた煽る。

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「イチロー、イチロー、イチロー…」
何回コールしただろう。

そのアンコールに応えて、また戻ってきたイチロー。

(画像追記)
サヨナライチロー

いつもの「指定席」に戻ってきたイチロー。


そして、もうこれが本当に最後なんだ、と思った。


そして、本当に最後になってしまった。


いくつかのボールをスタンドに投げ込んで、一塁ベンチへと戻っていった。

去り際に、「(いいプレーを)やったときは喜んでくれ、
恥ずかしいプレーをすればしかってくれる。
この球場には本物の野球ファンが多かった。
その中でプレーできたことを誇りに思います」

とのコメントを残してくれた。心の底から、本当に嬉しかった。

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その後、ご存知の通り、イチローは、「Ichiro」になった。
昨年は、MLBでも記録を打ち立てた。

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でも、いつか、

現役を終えるまでのいつか、

一瞬でもいいから、

またこのスタンドで、


「オリックスブルーウェーブ」の
「イチロー」が


見たい。

見られるんじゃないか。

現役の最後は、やはり古巣に戻りたい、と思って
戻ってきてくれるんじゃないだろうか?


「サヨナラ サヨナラ また笑って出会えるその日まで」


そういう気持ちで生きてきた。


甘い考えだろう。

現実離れした願望だろう。

ただの妄想だろう。



でも、いつの日にか。



そう、いつの日にか、と心のどこかで信じて生きてきた。



だから、その一抹の可能性を、完全にゼロにした、
昨年の合併は、許せない。悔しい。

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この日のスコアはこちら

翌日の記事はこちら


良く考えれば、
この日の野田浩司投手に対して、

「公式戦」で1イニングも、
「1球」すらも投げることを許さなかった、

という仕打ちを考えれば、

こういうことを平気で出来る経営陣なんだろうなあ、

と早く気づくべきだった。

この日の完璧なピッチングで
'00年の最優秀防御率のタイトルを取った
戎信行は、合併のドサクサに巻き込まれて
大阪近鉄バファローズから解雇された。

これも、何かの因果なのだろうか。

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実は、この同日、悲報が流れた。
福岡ダイエーホークスの、前年'99年日本一の原動力となった
セットアッパーであった、藤井将雄投手が亡くなったのだ
(関連記事こちら)

福岡ダイエーホークスは、彼のつけていた15番を永久欠番とした。

それは、「ソフトバンクホークス」になっても変わらない。

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ファンの気持ちを逆撫でし、歴史を軽視するチームと、

地元に熱狂的に愛される、ファンの多いチームの違いだろう。

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変革していくこと、改善していくこと、
またそのために努力することは
経営者としては当然だ。

人間としても当然かもしれない。

少なくとも経営者としては
それが出来なければ失格だろう。

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でも、変革していくことと、歴史を軽視することは全く別だ。


だから歯がゆく、悔しい。

今の野球界が間違っている、ということを認識している。
そのベースについては個人的には
私も賛成しているが…。

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そして、そんなチームだけど、
やっぱり応援してしまう。それがもっと悔しい。


「じゃ、ファンやめれば?」と言われて
「いや、それでもやめられへん!!」と答えてしまう
自分が一番悔しい…。

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でも、決めたんだ。

私はオリックスファンを続けていくということを。


「サヨナラバス」の歌詞を借りれば、


最後のフレーズ、「僕は僕らしくいるから」


私らしくいること、が、
多分オリックスファンであり続けることなんだ。
少なくとも現時点では。


['05/02/12]
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['05/03/20:画像追記]


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